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株式会社ブランジスタ 様
  • 1970年リズム・アンド・ブルースのミュージシャンを志して上京した安部は生活費を賄うために新橋の吉野家でアルバイトとして働いていた。外食産業この分野は伸びる!音楽に挫折したままでは故郷に帰れない!音楽の道をすっぱり諦めた安部は本社社員に抜擢されめきめきと頭角をあらわす。1977年安部28歳吉野家が急成長を続ける中安部は郷里の福岡九州に吉野家が一店舗もないことに気づく。勝手に提案書を書き九州の店舗計画を自分にやらせてほしいと松田社長に直訴し九州地区本部長となる。しかし、客層を広げようとソフトクリームやドリンクを置き失敗現場で数々の経験を積み重ね自らの知恵とした。この後吉野家は牛丼というコア商品を中心にブランディングに邁進し大きく成長を遂げることとなる。
  • 1980年4月アメリカで修行をしていた安部に一本の電話があった。吉野家は急激な拡大により食材調達の困難と味や品質の低下をもたらし顧客離れによる倒産の危機にあった。日本に戻らなければ。おい吉野家を一緒に建て直そう!1980年7月15日会社更生法適用申請。再生に向けて協力するよう周囲の店長や社員を説得して引き留めようと駆け回った。その後、安部は1983年に取締役として経営参加。管財人となった弁護士・増岡章三氏や旧セゾングループの支援を受けながら業績を回復。1988年に常務取締役となり1990年には株式店頭公開1992年に42歳の若さで代表取締役社長に就任する。そして2000年東証一部上場へ。
  • 2003年突然の危機。BSE問題によりアメリカ産牛肉が輸入停止。吉野家は牛丼を販売できないという前代未聞の事態に。競合他社が味の異なるオーストラリア産牛肉の使用に踏み切る中吉野家は第一の危機で学んだこと。味の低下は顧客離れにつながる。このことを教訓として牛丼の販売を中止する。豚丼などの代替メニューを提供して急場を乗り切る。2006年9月アメリカ産牛肉の輸入は一日だけ再開され吉野家の牛丼は根強いファンの熱狂的な歓迎を受ける。牛丼の味にこだわり続ける姿勢は間違っていなかった。大盛りツユダクで!ユーザーの求めるものを提供しない企業は淘汰されるんだ。その後無事に牛丼販売再開。
  • 2013年は吉野家にとって転換の年となった。2013年4月18日牛丼並盛りの値段を380円から280円へ値下げ。そんな安部の大決断は商品のキャッチコピーにも現れる。「うまいやすいごゆっくり」へ。そんな時代を見据えた新メニューを投入する。これらの変革は2011年の5ヵ年計画「ネオプレゼンス」に基く。「牛すき鍋膳」「牛チゲ鍋膳」を順次開始し、新メニューを食べる客の滞在時間は20分と長くなりまさに「ごゆっくり」を体現した。机上の空論ではない。まさに現場の経験があるからこそできるブランディング。牛丼という確かな柱を築き上げてきたからこそできる大胆な改革はこの先も続く

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